いきなりですが、今回はいつにも増して長く重い内容です。でも多くのみなさまに最後まできっちりと読んでいただくことをお願いしたいと思います。
こんにちは。ニューハーフの舞でございます。
またまた約1ケ月ぶりのブログとなってしまいました。
そして今月28日は、舞のお誕生日でございます。
目出度く55歳を迎えます。
3年前くらいからこの時期になると
「舞さん 誕生日プレゼントは何がいいですか?」
という問合せもいただくようになりました
そうですね、何がいいかしらね?
やっぱりネックレス、ブローチ、髪飾りなどのアクセサリーは嬉しいかしらね^^
だって女の子だもん^^;
ストールなんかもいくつあっても重宝するのでいいかもしれません
ティファニーブルーとか、綺麗めのシルバーグレーが上品ですよね
あとはセクシーランジェリーなんかも意外と嬉しかったりします
って、お強請りブログみたいになってしまうのでこの辺でやめとこ
ところで・・・・・
「男娼」を読んでいただいた方はいらっしゃるでしょうか?
ぜひ正直な感想を聞かせていただけたら嬉しく思います
そうそう下記ブックレビューサイトで私のことを書いてくれている人がいました
男娼 感想 中塩智恵子 - 読書メーターさてさて、いよいよ本題でございます
今日は自画像なし、テキストオンリーでお届けします
舞の乱文で長文なブログ記事炸裂でございます
(いつものことじゃん!とツッコミが入りそうですけどね^^;)
そのお題は
7月から何かと世間を騒がせている
「LGBT支援の度が過ぎる」の杉田水脈(新潮45、8月号)の炎上から始まり
今回の「新潮45」10月号を読んで
舞の感じたこと考えたことをグダグダっと書き綴って参りたいと思います
それではスタート
もちろん、私は8月号も10月号も購入して読みました。
書店で、10月号の表紙を目にした時、これ炎上狙ってるよね!?と、真っ先に感じましたね。
そして休刊・・・・・ふむふむ・・・・そして復刊後の話題性・・・・
ビジネス的な側面から考えると、ありでしょうね。^^
言論という側面から考えると、今回の10月号では杉田論文を擁護する論者の論文しか掲載していないことは、言論プラットフォームとしてはおかしいと、私は思いました。
どちらの言い分も掲載していれば休刊ということにはならないから、明らかに炎上、売上増を狙ったのではないかと 勘ぐられてもおかしくない。
嘘を垂れ流すようなメディアは潰すべきでしょうが、そうでなければ何を言うのも何をするのも自由でしょう。持ち合わせている知識が間違っていたり不足していたら、それは周囲が訂正したり補ったりしてあげればいい。専門家であっても完璧ではない。それが人。
特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」
が、その特集タイトル
これに対して
「おかしい、否おかしくない」
と、両者を取り上げるのが言論雑誌としての役割ではないのか!?
つまり8月号の炎上を受けて、今回の特集を組むのなら、杉田論文擁護派、批判派を誌上で戦わせるべきでしょう!
なぜ!?それをやらないのかを私は理解できない。
新潮45の信頼性向上と売上増を狙うなら、わたしはそうすべきであったと思う。そうしたら、確固たる言論プラットフォームとして君臨できる。
なぜ誰もそうは考えない?
こう考えてくると、どっともどっちであって、両者ともLGBTについて語ってほしくない
擁護派の論調は、マジョリティーの大半の本音でしょう。それは差別でも偏見でもなく、それが理解の範囲であって、過去から受け継がれてきた風習や価値観に従って自分の人生を築いてきただけのこと、それをいきなり差別だの偏見だのと一刀両断されてしまっては混乱するだけでしょう。
私は兄弟姉妹、親戚縁者から完全に拒否をされてしまっているけど、彼らは差別主義者ではない。自分たちの家族を守っている、自分たちが信じてきた人生を守っているだけのことである。
私が私のような人も世の中には少なからずいることも知ってほしい理解してほしい、これは決して異常でないということを理解してほしいと訴えることと、その心情は何ら変わりはない。
規格外の人は、規格がどういうものであるかを知った上で、自分が規格外だと認識している。
規格内の人は、規格外を理解する必要性を感じない。規格内に納まっていれば生きやすいのであるから、自分が規格内にいることを確認できればいい、規格外を知る必要なないでしょう。
実際にそう考える規格内の人は多い。
血液検査の結果が基準内に納まっているだけで全面的に安心する。私からすればバカげてるとしか言いようがない。
そもそも基準というのは、どこから出てきた、何を根拠に出てきた基準なのだ!?
偉い医者がそう言っているから・・・・
おいおいおい、医者は神なのか!? 私達と同じ人間だぞ!?
でも、これは私の考え方であり、私以外の人たちに押し付けるつもりもない。
みな生きていくのに何か指針や基準が必要であることは理解できる
その指針や基準が私は他者と大きく異なっているというだけのことで、それを批難されたところで、それが差別や偏見だとは思わない。
それぞれが信じているものを信じればいい
その信じているものを軸にして意見を交わすことがなぜできない?
それを差別だの偏見だのと片付けれてしまっては、何も言えなくなってしまうではないか!
今回の騒動を見ていて、日本人というのはなぜここまで議論ができないのか、とあらためて強く感じた
新潮45に寄稿した論者の意見は、近代マジョリティーの人たちを代弁していると、私は受け止めている。
そしてそれを否定するつもりも、LGBTへの差別だ偏見だと言うつもりもない。むしろ有り難いと思っている。近代マジョリティーのLGBTに対する感情や理解度がわかってよかったと。そしてここからが始まりであって、両者でさまざまな意見を交わすことが大事なんだと思う。認識の間違いは正していけばいい。それだけのことのように思う。それを差別だの偏見だのと一言で片付けて、言論の機会を奪うのは許せない。
杉田水脈論文を擁護した論壇を徹底的に差別主義者扱いした論者のお陰で、LGBT側まで何も言えなくなってしまった。
人類全体から見ても おかしな人たちがいるように、トランスジェンダーという括られた世界の中にも まともな人もいれば、おかしな人もいる。
まともな人というのは、現代社会において「まともな人」、ここでは、それを自分の立ち位置を冷静に見ることができて、社会に対して何らかの役割を果たそうと努力して生産活動を行う人と私は定義したいと思う。
そして、まともな人が生産したものを、何の努力もすることなく搾取する人たち、そうすることに何の疑問も罪悪感も持たないおかしな人たちもいる。それは、トランスジェンダーで括った世界にも数多くいることも私は知っている。恐らくそれを煽ってきたのは、LGBTを自分たちの都合だけで表面的に擁護するリベラルな人たちではないのかと感じている。
私は誰に恥じることもなく自分の力で自己責任で人生を切り開きたいと日々もがいている。そうでないと社会に対する罪悪感で私の心はズタズタに引き裂かれて狂人となってしまうか、自ら命を絶ってしまうことになると容易に想像ができるから。だから社会に恥じない自分に恥じない生き方をしたい思う。もちろん今までには様々な過ちを犯してきた部分もある。それはそれでしっかりと過ちであったと受け止めてひとつひとつ正していくように努力している。そういったことも含めての「恥じない生き方」と捉えてほしい。
私の存在が、私の家族を親類縁者を傷つけ悲しませてしまっていることは確かな事実であることは認めなければいけない。特に親は、私の幸せを願うからこそ嘆き悲しむのだから。それを責め立てても何の解決にもならない。それよりも 私自身はもっと数段上の次元で思考した上で、家族の次元まで下りて、そんなに怖がることでも悲しむことでもないんだよと 私はこれで十分に幸せなんだからと 寄り添ってあげることが必要なんだと思う。そしてそれは政治の役目ではなく、私個人の役目なのです。
マジョリティーだから強者というわけではない。むしろ私の家族や親類縁者は弱者でしょう。だからこそマジョリティーが認める価値観や常識を無条件に受け入れて、それに乗っかっていくことを選んだのでしょう。それを否定するつもりはサラサラない。むしろ、それは賢い選択だと、私も思う。人生や社会を深く考察する気もなければ、そういうことを考えることを面倒くさいと感じる人たちだから、仕方のないことだとも言える。それは裏を返せば考える能力も理解する能力を持ち合わせていないとも言えるかもしれない。そういう意味で可哀相な弱者だと捉えています。
LGBTへの理解ということに限らず、そもそも親兄弟姉妹、血縁者同士であっても相手を理解するのは難しいのに、社会に対してLGBTをもっと理解しろなどとよく言えるものだと、私は思う。下手な認識と理解は反って差別になるし当事者を傷つけることにもなる。小川榮太郎の「理解したくもない」という言い分は理解できる。下手な表面的な理解で寄り添われるよりも、こうしてハッキリと自分のスタンスを表現してくれると潔くてスカッとする。そして、この人としっかり対話をしてみたいと思わせる。それが人という生き物の妙なところである。私だけかもしれないが・・・・。
さて、その小川榮太郎であるが
「新潮45」10月号へ寄稿で最も取り沙汰されている論者であるが
下記の彼の主張に、私は100%同意する。
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私的な領域を救うのは、個人の努力とその延長にある共同体の道徳、智慧であり、それはまさに「人生そのものの領分」だ。
政治の役割は生命、財産、安全のような、人生の前提となる「条件」を不当な暴力から守る事にある。
大きな政府論だろうと小さな政府論だろうと、この大原則論は揺るがせてはならない。
なぜならば、それは苦痛や生き難さも含めた人生の私的領分という尊厳を権力に売り渡す事に他ならないからだ。
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そして、「人生の私的領分という尊厳を権力に売り渡せ」と言っているのが、共産党であり共産主義者である。新興宗教と何ら変わりがない。すべてを共産党に売り渡せば貴方は幸せになれますよ。
人類全体内のマジョリティーからすれば、私はおかしな人に属する。それを私は否定しない。でもそういう人間も何らかのイレギュラーで生産されてしまうんだということは知ってほしいと思う。そして、そのおかしな存在をどう受け入れるかということは、その時の政治体制、社会体制、地球環境など様々な要因によって変わってくることは容易に理解できることだと思います。特に地球環境が激変して70億もの人類を賄うだけの食料が調達できなくなってしまった場合、人類の継続を考えれば優良な遺伝子を持つものだけを残そうとすることは、人類の本能として自然な流れだろうし、まともな知識を持ち合わせていればそのことに異論を唱える人はいないでしょう。此処で言う優良な遺伝子といのは、種の保存をするために最も優良な遺伝子という意味でなので、当然私の遺伝子は優良とはならない。
人間から見ると地球という存在は絶対的な存在であると捉えることができる。しかし、その地球上に存在するものに絶対はない、地球上に存在するあらゆるもの万物に忖度しながら変容し、その存在と立場をその時代に応じて確立しているように思う。そうでなければ人類は遥か昔に滅亡していたはずである。
また小川榮太郎を引用すると
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トランスジェンダーは、現代心理学が量産する様々な心的変容同様、曖昧な概念だ。現状では「身体の性と心の性が異なる」という定義だが、今後どう概念が揺れるか保証の限りではない。
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54年間、様々な視点で自分を含めトランスジェンダーというものを観察してきた私であるが、小川榮太郎のこの主張に反論することはできない。私の知るトランスジェンダーの多くが、この概念有りきで語り、ニュートラルで自己分析をして自己認識をしている人は多くない、その感覚は血液型別性格診断や星占いと何ら変わらないと私は感じる。ある一部の識者によって定義された概念に無理やり自分を当てはめて喜んでいるような者がいる。オマエには主体性がないのかと言いたい。まあ 人はそれくらいに洗脳されやすい。だからこそオウム真理教のような集団が存続できるのであろうし、キリスト、イスラム、仏の思想も人を支配し続けることができているのあろう。
そういう意味では、この一連のLGBT論議はそういう永年に渡る洗脳から解放されるきっかけになるのかもしれないとも思う。
一方では、新潮45に寄稿している論壇たちの顔ぶれ、この論議が始まったのは朝日新聞批判を主題とする論文から始まったことを踏まえると、朝日に見事にその論点をすり替えられてしまったとも受け取れる。今や朝日新聞への批判については、見る陰ももなくなってしまった。言論封殺については、朝日が一枚も二枚も上手であることが証明されてしまった。あっぱれ朝日と称賛しておこう。
日本社会はまだLGBTにどう向き合うかなんて論議できる土壌になっていないというのが、私の見解です。そもそも多くの日本人が自己喪失状態であって主体性がない。その自己喪失をLGBTという概念に求めているような人たちもいる。何でそうなるのか、私にはわからないけど、それでは不幸になるだけだということがわからないのだろうかと思う。実際、現在のTという概念に縛られた当事者たちが、性転換後に後悔して自殺をする。私はTについては、社会思想、産業構造、さらには環境ホルモン、加工食品、電磁波(太陽活動や電子機器)、日頃利用している日用品(ファブリーズやシャンプーなど)などもその存在に少なからず影響しているのではないかと考えています。それは身体機能への影響なのか、脳細胞への影響なのか、遺伝子レベルの変異を齎すのかはわかりませんが・・・・・・。ただ、そうしようと思って、電子機器が作られたりしたわけではなく、あくまでも社会を豊にするためですし、私に限らず現代人にとって仕事のツールとして無くてならないのが電子機器である。だから、そこは否定しても仕方のないこと。そういう影響が出ないような製品を開発すればいい。ただ、そういう影響もあり事実もあるということであるならば、やはりLGBTも社会の一員として受け入れて特別視しない社会性は必要でしょう。だからと言ってテクノロジーの被害者であるとか、そういう扱いはされたくはない。ただ普通にみなと生きていけるような社会であればいいのです。
私は親族から理解されずにその存在を認められていないけれども、だからと言って部外者が私の親や兄弟姉妹を差別主義者呼ばわりするのは絶対に許さない。彼らは彼らの価値観に沿って自らの人生を選択しただけなのですから。
だから、杉田水脈論文を読んで、LGBTへの差別だ偏見だと叫んでほしくないのです。彼女が書いている内容については、見識不足であること文章が雑であることは否定できないけれども、間違ったことを言っているわけではない。
私は自ら敢えて親族を罵倒し、親族たちが何も迷うことなく納得して私を絶縁するように仕向けました。そう自ら孤独な人生を選びました。そうすることで、私は彼らが築き上げてきた家族とその人生を守ることを選んだに過ぎません。そして親族たちと敵対することなく私は私の人生を築き上げることを選んだに過ぎません。
これから家族との関係はどうなるのかわかりません。きっと時が解決してくれることでしょう。
それにしても、この件でAbemaTVの番組に出ていた鈴木賢(明大教授)は酷かったな。番組側はもう少しまともな人を出演者として選んでほしかった。
それでは、今回はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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